薬師沢石張水路工って?

薬師沢石張水路工って?

薬師沢石張水路工って?

平成21年1月8日登録有形文化財指定「薬師石張り水路群」について

この地は、フォッサマグナ地帯にあり、虫倉山系の向斜軸、昼夜寒暖差の大きいやや高地の南面傾斜地帯であり、かつてのリアス式海岸が海退して出来上がった地すべり地帯ではありますが堆積土で形成しており、何でも栽培できるような肥沃な土地柄で、かつて人々は、狩猟民族から農耕民族に変わった時代の中で「安定」した暮らしを望み地すべりという危険を地元から採れる巨石と大木を利用して、小さな石えん堤と用排水路ならびに棚田の整備を行ない、地すべり抑止とともに棚田から日本を支えてきた米経済文化の中、山里で豊かな恵みを受けてきたものと思います。

地元での苦労はあったもののえん堤工事は、地元労働力利用での就労の場確保となり現金収入にもつながり、工事負担金は、受益者比例負担、弱者費用負担軽減措置などに加え、時には「富の再配分」により諸経費に充てることも行なわれコミュニケーションと連帯意識を高め取り組んできた事が「砂防惣代」選出から始まって工事完工そして今日までの記録が残るとともに現地石張り水路群が保全利用されている事は、正に郷土愛の感じられる住民自治のモデルであり有形文化財に最高に相応しいものと考えるところです。

従ってそこの暮らしと文化には、農村原風景があり日本で最も美しい村連合が大きく評価し小川村は他の「おやき」と「アルプスの眺望」の評価をいただき日本で最も美しい村連合に加盟する事ができました事は、登録有形文化財指定に加えとても誇りに思います。

文責:NPO法人美しい村小川・絆のネットワーク 村越光憲

薬師沢石張水路工を知る

長野県小川村、稲丘東地区に直径30cm~1mの石を人の手により積み上げた【石えん堤郡】※1があります。
明治19年に58基が造られ、その後の災害等により修繕をくり返し28基が現存し、砂防施設※2として機能しています。
現在は水路わきに散策道が整備され、季節ごとの自然と調和のとれた石張水路工を見ることができます。
薬師沢石張水路工とは、この一帯にある「薬師沢」「富吉沢」「己り地沢」「滝の下沢」の4つの沢を合わせた呼び方です。

※1 石えん堤隅[いしえんていぐん] 石積の小さなダムが連続しているもの。薬師沢では斜面にあわせて石を張ったえん堤郡が水路状に見えることから[石張水路工]と呼んでいる。
※2 砂防施設[さぼうしせつ] 山地・海岸・河岸などで、土砂や石の移動・流出を防止する施設のこと。

なぜ造られたのか?

フォッサマグナ地帯に位置する小川村

薬師沢にある小川村は数百年前は海でした。「フォッサマグナ」と呼ばれる東北日本と西南日本を境目とした地帯に位置し、このあたりは砂や泥が堆積し固まった砂岩や泥岩や火山噴出物の堆積した地層になっていて、さらに地殻変動による隆起により断層や亀裂が多く、もろい地質となっています。その厚さは約6,000mにおよび、U字型をしています。
フォッサマグナ:語源はラテン語で「大きなくぼみ」という意味

地すべりが発生しやすい地質の形成/地すべり防止対策

約2500万年前以降、海底の泥岩を押しあげながら「海底火山」が噴き出しました。火山から噴き出された岩や砂は急に冷えて固まるときに縮むため、多くの亀裂(節理)ができます。このような岩石を「凝灰角礫岩」といいます。図A参照
その後、隆起を繰り返してできた山の一つが「虫倉山」です。雨は亀裂にしみ込んで大量の『地下水』となり、泥岩との境目から『わき水』として出てきます。泥岩は弱いため、わき水の近くから『地すべり』が発生するようになりました。地すべりによって地形がなだらかになり、わき水により稲作ができるようになりました。しかし地すべりは、くり返し発生し田畑を押し流し大きな被害がありました。人々は生活基盤の土地を守るため、「薬師沢石張水路工」の整備に取り組み、今日まで維持管理を続けています。図B参照

昔から地すべりが多数発生!

薬師沢は、残っている記録によると江戸時代から地すべりが発生していました。明和年間(1770頃)、文化13年(1816)、さらに弘化4年(1847)には善光寺地震によって大規模な地すべりが発生しています。近年では昭和49年の融雪のときに発生し、建物、道路、田畑に大きな被害があり、石張水路工の一部も埋没しました。

人々の地すべり防止への熱意

明治18年に篠ノ井の山布施沢で砂防工事が行われていることを知った稲丘東地区の住民は現地を視察し、同じような工事をおこなえば薬師沢の地すべりも止められると考えました。そして、砂防惣代※3と呼ばれる代表者5名を選び、国に3回の陳情と2回の現地視察を行いました。さらに工事費用のうち200円(今のお金でおよそ1,000万円)を地元からの寄付金として集め、無償で工事にたずさわる人夫※4 1,000人分を申し出るなど懸命に努力しました。その結果、明治19年4月に内務省係官が当地を訪れ、5月1日から工事が始まりました。当時は国の砂防事業の始まりのころであり、薬師沢の事業が認められたのは異例のことでした。その後もたびかさなる災害に立ち向かい明治19~昭和28年(68年間)に24回の大きな修繕工事の対応にあたりました。

※3 砂防惣代[さぼうそうだい] 「惣代」=「総代」。全体の代表者ということ。
※4 人夫[にんぷ] 土木工事・荷役などの力仕事に従事する人。

今も引き継がれる「砂防惣代」

現在の砂防惣代は27代目です。受け継がれてきたものを次の世代へ伝える大切な役目です。

建設当時、稲丘東地区の砂防に関する代表として選挙で選ばれた砂防惣代にはさまざまな仕事がありました。たとえば、国や県、村などの役所との交渉や工事監督、負担金や人夫の調整、地すべりした土地を地主に再配分すること(わり地)などです。現在は、役所との交渉や地区内に地すべりがないか見まわったり、草刈など石張水路の維持管理、水路のまわりに花木を植えるなどの景観整備などもおこなっています。このように、明治18年(1885)に設立された砂防惣代制度は120年以上経った現在も途切れることなく先人の想いが代々引き継がれています。昭和30年頃は一面棚田が広がり、農耕馬の体を水路で洗う風景も見られましたが、年々荒廃が進むなか、他の地区からの応援、国、県や砂防事務所の職員、砂防ボランティアなど多くの人たちの協力を得ながら整備を進めて、多くの人たちに里山の良さを実感できる所になるようにしたいと思います。

使った道具と造り方

当時の人々の知恵が生かされて造られた薬師沢石張水路

工程1 石の切り出し

石を切り出すには、突きノミで穴を空け黒色火薬やセリヤを使って石を割っていました。

工程2 石の運搬

石を運ぶために現在のような重機はありませんでしたので、藤つるで作った藤モッコや、木ソリ、しょいこなどを使い人力で運びました。

工程3 石を引き寄せる(かぐらさん)

大きな石を谷から引き上げたり引き寄せたりするため、かぐらさん(神楽桟)という道具を使いました。かぐらさんは、太い柱を軸として、その軸に横向きに廻し棒が取り付けられています。2~4人で廻し棒を押して主軸に綱を巻き取り、石を引き寄せる道具です。現代で言えばウィンチに当たります。

工程4 石を積む

切り出された野面石のうち、大きなものを中心に据えて、そのまわりはすき間を詰めるように積んでいますが、長めの石を平らに奥まで寝かせるようにしています。この積み方は初期のもので、明治後半から昭和時代にかけては、石を加工して石とのすき間をなくして一つの石の周りに六つの石を配置する「亀甲積み」が多くなりました。この方法は、「一つの石が抜けてもまわりの石が力を伝達する」ため安定した積み方です。

薬師沢石張水路工の構造

石えん堤が連続配置されたつくり

急勾配な薬師沢の安定のため、水田の土手にあわせて空積み石えん堤が連続して配置され、水田の用水路としても有効に機能しています。

色々な特徴を持つ石張水路

石えん堤は設置場所によって様々な規模ですが、高さ1から5.8m、前面の法勾配※5は1:1:0から1.6(45°から32°)までのものが多くあります。
高さ3mを越える石えん堤は法勾配が複数で下流を緩くして流れを弱くするようにしたり、水が落ちる部分の中央の高さを端よりへこましたり、水路の両側は壁のようにして水の流れが安定するよう工夫されています。また、石えん堤の下部には石を積むときに崩れないように、土台として松の丸太を使用したり、前面の中間に小段を設け、石積みを安定させ、対岸の水田に渡る通路としているものもあります。

薬師沢石張水路工の今と昔

高さ25.6m、長さ(水平)63.2mの急斜面に造られている石張水路工があります。薬師沢石張水路工の中で最も規模の大きいもので富吉沢石張水路工といいます。22°から31°までの4つの勾配のえん堤と2つの小段(ほぼ水平)を連結させた、亀甲積み構造の水路です。

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